日本書紀では第12代景行天皇は、神夏磯媛に導かれて佐波から九州のこの地に到達する。神夏磯媛が磯津山の賢木を抜いてそれに神宝をかけて景行天皇の前に現れている。磯津山というのが現在の貫山で、その円錐形の山容は、神として祀るにふさわしい威厳を示している。この山が一番美しく見えるのが、小倉南区の朽網辺りとなる。そのようなことも考慮して、ここを九州の第1上陸点とした。今回は北九州空港から連絡橋を渡り、工業団地のところで撮影を行った。あまり近すぎると貫山の全容が分からなくなることも考えられた。
しかしなんと言っても日本書紀の編纂者が景行天皇をどこに上陸させたかったかも知りたかった。日本書紀の編纂とほぼ同じタイミングで、奈良朝廷は官道を全国に築く国家としての一大事業を展開していた。九州上陸はそれまで、現在の行橋市にあった萱野津(草野津)を利用しており、もし景行天皇が本当に九州に上陸したなら、中国地方からなら間違いなく萱野津を選んでいただろう。神夏磯媛が捧げた賢木が、京都平野を取り囲む高城山やほとぎ山、馬ヶ岳、香春岳、宝山のそれではなかったので、あえて今回の撮影はこの地を選んだ。
景行天皇の上陸地は定かではないが、そのまま長峡県に移動している。
神夏磯媛はなぜ貫山(磯津山)の賢木を捧げたのか。日本書紀に記されている磯津山は貫山ではないのではないかという思いも少しあります。いずれにしても貫山は登って確かめてみる予定です。