宇佐 風土記の丘

投稿者: | 4月 25, 2022
宇佐赤塚古墳

宇佐赤塚古墳

赤塚古墳

この風土記の丘に最初に築かれた前方後円墳で、西暦250~280年代頃ではないかとされている。この古墳に眠っていたのは、当時の菟沙津彦だった。「魏志倭人伝」に記載されている女王卑彌呼は、西暦248年頃死んだとされており、菟沙津彦もまた卑彌呼を知っていたのではないだろうか。同年代の古墳に、北に約60キロメートル行ったところに苅田町石塚山古墳がある。どちらの埋葬方法も古墳の頂上に箱式の石郭内に埋葬するもので、副葬品に同じ同笵で作成された舶載鏡(三角縁神獣鏡)が複数枚埋葬されていた。

邪馬壹国がどこにあったかという証明はこれからもできないだろうが、倭国を構成した30ヶ国は、九州北東部から瀬戸内海沿岸に広く分布していたのではないだろうか。前漢時代の倭国は100ヶ国で構成されていた。それが西暦170~180年代の倭国大乱で30ヶ国まで減少した。

西暦180年代、ニュージーランドのタウポ湖ハテペ噴火は、火山爆発指数(VEI)が7の破局噴火が起きており、全世界が寒冷化に襲われた。中国では黄巾の乱が起こり後漢が瓦解して三国時代を迎えている。倭国大乱もこの現象と同じと考えてよいのではないだろうか。1991年にフィリピンのフィナツボ山が噴火(VEI=6)して、1993年に記録的な冷夏を向かえ、タイ米を急遽輸入する程の稲作の不作に見舞われている。西暦180年代の不作は、これ以上に深刻であったであろう。これにより多くのクニの民が餓死し、大乱に発展していったと考えられる。

寒冷化が数年間継続し、ここから立ち直る為に残った倭国の国々が卑彌呼を共立し、数十年を費やして復興を遂げていった。赤塚古墳の菟沙津彦も、その復興の一躍を担った人物だったかもしれない。

鶴見古墳

宇佐鶴見古墳

宇佐鶴見古墳

風土記の丘最後の前方後円墳が、この鶴見古墳であり、西暦550年前後に造られたとされている。丁度、日本書紀や古事記に記載されている筑紫君磐井の乱の直後となる。そしてこの先は菟沙津彦は前方後円墳の築造を行わなくなる。当時の大王家が朝鮮半島での新羅と百済の紛争において、百済を支援して援軍を出そうとしたところ、筑紫君磐井が新羅に味方してそれを妨害したという話となっている。当時の筑紫君磐井は筑紫、肥、豊の三国をその支配下に置いており、三国が当時の大王に背き戦ったとされている。ただそれが真実かどうかは、誰も分からない。結果として大王側が勝利を収め、屯倉という直轄地を設置している。

菟沙津彦はどうなったかというと、この時から宇佐風土記の丘から姿を消す。そして150年後、日本書紀や古事記に神武天皇の東征伝に登場する。宇佐川の上流に一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)を造り、天皇一行を饗応したとされる。菟沙津姫は天種子命の妃になる。そして日本書紀が上梓された5年後の西暦725年、宇佐八幡宮が小倉山に創建され、八面山麓に勢力圏を持っていた宇佐君池守がその押領使となり、後年小宮司を拝命する。

一部の人は宇佐風土記の丘に眠る菟沙津彦と、宇佐君池守は別の一族であると主張しているが、150年後の日本書紀の記載から小宮司宇佐君池守の登場は、同じ一族であるという意識が宇佐君池守側にあったと考える方が合理的である。