目次
今回の調査について
実施期間:2022.4.15~2022.5.14
調査方法:ネット上の情報調査、文献調査、現地調査
調査内容:隋書倭国伝において、大業4年(西暦608年)、日本書記では推古天皇15年に、隋国の使者として裴世清が倭国に派遣された。その裴世清が、竹斯国の東に秦王国があり、その人々は華南(中国南東部 呉、越)と同じようで、夷州(台湾)に来たのかと目を疑ったと記している。秦王国から十数カ国で海岸に出るとある。当時は、筑紫の君磐井が乱を興して討伐されて80年になるが、竹斯国は現在の八女周辺とすると、その東とは日田郡ではないだろうかと考えられる。そこから現在の八女香春線から国道201号線を行けば、周防灘に行き当たる。日田郡に秦王国があったことを証明してもらいたい。
竹斯国は現在の八女でよいか
西暦528年に磐井の乱が興り、翌年に磐井は継体天皇の命を請けた物部麁鹿火によって処刑される。磐井はこの乱に肥国、豊国に協力を仰ぎ、彼の墓所が八女の岩戸山古墳とされている。当時の産業は水耕を中心とした農業で有り、人の流れは大きくは変化しない。太宰府が重要になるのは、唐・新羅との大規模な戦いが始まってからになる。当時の竹斯国は、八女周辺として考えてもよいだろう。
どのような文献に当たるか
実は事前に色々と調べてみたが、日田に関する古代史はそんなに多くはない。「日田の神話」「豊後国風土記」「豊後国志」「日田郡史」「先代旧事本記・国造本記」が秦王国を類推するような記録があるようだが、福岡県の図書館ではそれらを蔵書として置いているところは少ない。日田市の図書館に行かなくてはならないだろう。
日田では「鷹」の伝承が多く存在している。秦氏のトーテムが「鷹」なのか、秦氏と鷹が同時に語られることが多いが、それが何に起因するのかも、今回の調査で明確にしたいと考えている。
古墳について
秦王国を構成している秦氏は、中央アジアから中国大陸南東部、朝鮮半島南部(新羅・一部加倻)を経由して倭国に渡来したとされている。そのため彼らの王墓は、新羅に関する遺物が多いのではとされている。そのため日田でも、新羅系の古墳がどのように存在しているのかを確認してみたい。
秦王国について
応神天皇の時代(5世紀初頭)、弓月君が120県の人々を率いて倭国に渡来してきたと日本書紀に記載されている。この集団を秦一族ととらえ、彼らが渡来直後に一時居住した場所を初期秦王国と仮定する。1県の人数を1000人と見積もったとして、12万人からの大集団となる。一度に渡航させる船の調達などを考えると、1回に数百人規模で20~30年くらいかけて渡来したと考える方が現実的ではないだろうか。6世紀の欽明天皇元年の渡来人の戸籍調査によれば、秦人は7053戸である。
毎日新聞東京朝刊 2018.7.13 「日本書紀の応神天皇の時代に多くの渡来人の記事がある・・・」によれば、律令時代の戸籍からは1戸辺り15~20人の人数で構成されており、1里(り)を50戸で編成していた。つまりはここでも1里1000人を最小の行政単位として扱っていた。欽明天皇元年の戸数に当てはめれば14万人くらいとなる。それでいくと応神天皇時代の秦人12万人という数字は、正しい数字と考えられる。
応神天皇時代の倭国の人口が500万人程度とされているので、秦人は全人口の2.4%となる。この12万人をひとつの地方だけで賄えない可能性が高く、後続者は後の豊前国、摂津国、河内国、大和国、山背国の開拓地へと次々に移住させられていったと考えられる。この時点で秦人の首長(完全な合議制でないかぎり)がいた集団が第2次秦王国と考えられる。
補足:応神天皇はまず葛城襲津彦を加羅に遣わし、次に平群木莵(つく)宿禰、的戸田(いくはのとだ)宿禰を派遣、更に紀角(きのつの)宿禰を派遣している。この4人の人物も渡来人で、九州北部に居住していたと考えられる。
第2次秦王国は磐井の乱までに4~5代の世代交代を行っており、首長選出で秦王国が遷移した可能性はある。ただし筑紫国が磐井の乱までに勢力を拡大してきた経緯からすると、秦王国は筑紫国から遠くない場所であったのではないだろうか。筑紫国が秦人の技術や知識を独占し、肥国や豊国を従えさせるまでに拡大した原因が、実はここにあった。
磐井の死後、その影響を排除した秦人の首長が、その後独自に王国を宣言し、裴世清が見た最後の秦王国に繫がっていたものと考える。
ネット情報の調査
ここでは、ネット上にある秦王国がどのようなものであるかを取り上げてみたい。ただし根拠の薄い情報や似通った情報は除外する。ここでは多くの者が当時から大和朝廷というものが大和地方に有り、周防灘近辺に秦王国があったのではないかという考えを示している。ただしその根拠は音が似ていたりとか、大和地方への道中なのでとかであり合理性が欠けていると言えるが、現在の文献や遺物の発掘状況では、これが限界であることを示していると考えられる。
ウィキペディア
秦王国は中国地方西部に比定されていると記述されている。出典は、石原道博編訳:『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝 中国正史日本伝』、岩波文庫。
下條竜夫氏:秦人(はたびと)の町 光都
裴世清は「アマタリシヒコ」という大王(オオキミ)と会見したと隋書東夷(とうい)列伝にはあります。日本書紀では、推古天皇という女性天皇の時代ですから、ここで中国側と日本側で内容の記述が異なります。いろいろな説がありますが、中国側にはウソをつく理由が何もないので、ここから、推古天皇、ひいては聖徳太子の存在自体が疑問になってきます。出典は、岡田英弘:『日本史の誕生』、弓立社(1994)。彼は秦王国を下関が定説としている。
秦人(はたびと)の町 光都 Kouto – The Town of Qin People – – SPring-8/SACLA 利用者情報 (spring8.or.jp)
歴史作家の関裕二氏
秦王国を豊前国、山国川の左岸あたり(現在の上毛町)としている。
さらに、氏はこう綴っている。
三世紀の『魏志』に、辰韓(しんかん・のちの新羅)にまつわる気になる記事が載る。「その言語は、馬韓(ばかん・朝鮮半島南部の中心勢力。のちに騎馬民族[ 扶余・ふよ]に支配されて百済となる)と同じではない。むしろ、秦人(中国の人)に似ている」というのだ。また、辰韓の人々は秦の重税や苦役から逃れ、馬韓の東側を割いて住まわせられた。秦の人に似ているから「秦韓(しんかん・辰韓)」とも呼ばれていたという。さらに時代は下って、『北史(ほくし)』や『梁書(りょうしょ)』に、新羅にまつわる記事がある。やはり、言葉も文化も中国人に似ていて、そもそも新羅に住んでいたのは「秦人」であり、だから「秦韓(辰韓)」といったのだと指摘している。すでに1930年代に、徐福が最初日本ではなく、朝鮮半島にたどり着いていたのではないかと、王輯五(おうしょうご)は推理している。半島東南部の辰(秦)韓がそれで、そこから分かれた集団が日本に渡り、出雲にたどり着いたというのである(『中国日本交通史 中国文化史叢書』臺灣商務印書館)。スサノヲが新羅からやってきた神話から、この解釈が生まれたのだろう。
福岡史伝
筑紫国から「秦王国」への道筋が、もし陸路ならば「海岸に達す。」という言葉より「秦王国」とその他の十余国は九州北部沿岸にあった小豪族の支配する各々の領地の事で、海岸というのは関門海峡に接する門司辺りのことだと思われます。この仮説を元にすると「秦王国」は恐らく那の津から東方のそう遠くない場所にあった地域だと想像できます。平安時代には博多湾内東方部の港町・箱崎に多くの宋商人が住んだ大唐街があり繁栄したといわれていますが、 宋の時代より500年程以前の隋の時代には、日本書紀にも登場する宗像氏が海外と頻繁に貿易を行ったと想像され、もしかしたらこの宗像氏の住んだ地域に近い津屋崎周辺に中国商人もしくは朝鮮商人の居住区があったのかもしれません。
その他キーワード
蘇我氏、韓神、烏宿(カラドマリ)神社、葛城、天の日矛、肥田氏、豊後大蔵氏、東漢姓、日下部氏、鷹神話、藤原恒雄、檀君神話、天忍穂耳命、香春神社、忍骨命、ダンワラ古墳、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡
文献上の調査
ネット上でも出典として取り上げられている文献から、古代日田について考察していく。日田日下部氏、日田と鷹についての関係もここで詳細に見ていきたい。
日下部氏は、成務天皇の時代(4C前半)に日田国造と定められたと国造本紀で記されており、葛城氏と同族で中国呉・越地方から朝鮮半島南部を経由して来朝したと考えられている。靭編連(ゆぎあみのむらじ)。一説では、魏の曹丕(文帝)の子孫、安貴公が雄略天皇の時代に一族と共に帰化した。神護景雲3年、大崗忌寸の姓を賜る。欽明天皇の時代に、靭部となる。
葛城氏は、武内宿禰の子孫(古事記)。葛城高額比売命(神功皇后の生母)(古事記)。父方、母方ともに新羅(天之日矛の末裔)から渡来してきた。
日田の神話
日田が湖であり、西から飛んできた鷹が湖(日田盆地)を決壊させ日隈や月隈や星隈が現れたという伝承。(矢野家伝)
豊後国風土記
ウィキペディアより、日田郡の条によれば、景行天皇が巡幸した際に、この地で久津媛(ひさつひめ)という神が人と化して迎えたことから久津媛之郡と名付けられたのが訛ったものであるとされている。
※五馬媛(いつまひめ)について
玉来神社と元宮に、景行天皇と合祀されている。
五馬大坪遺跡:天瀬町教育委員会、大分県日田郡天瀬町五馬地区所在遺跡の調査(1985年)
※豊後国風土記の記載(田野郷)と伏見稲荷大社の社伝の類似性もここに上げておく。
豊後国志
日田は日鷹と呼ばれ鷹が日田を創世してその鷹が次に鷹羽郡(田川)に飛び去って行ったという記述が残される。
日田郡史
役行者と2人の童鬼の伝承。英彦山に鷹が飛来したため、その一帯を日鷹郡という。
日本書記
応神記に英彦山で輝く水晶の記述
先代旧事本紀・国造本紀
比多国造 志賀高穴穂朝御世。葛城国造同祖止波足尼。定賜国造。
篠川賢:「国造本紀」の国造系譜 国立歴史民俗博物館研究報告 第44集 (1992)において、以下の記述を参考とする。
葛城国造と比多国造は「国造本紀」の伝文からは高魂尊系であると判断できないが,葛城国造については,『新撰姓氏録』(大和国神別)の葛木忌寸条に「高御魂命五世孫剣根命之後也」とあり,葛木忌寸の旧姓である葛城直は葛城国造の氏姓と考えられるから,高魂尊系と考えて間違いないであろう。したがって「葛城国造同祖」とする比多国造も高魂尊系ということになる。また知々夫国造は八意思金命を祖とするが,これは高魂尊の子と伝えられる神である。これらの国造が同族関係をもつに至った理由は不明であるが,宇佐国造と比多国造は隣接している。
現地調査(遺跡)
遺跡では、新羅に関する遺物が存在していないかどうか。また華南地方の遺物が存在していないかどうかを見ていきたい。
2022年4月28日(この日は下見)に実際に現地を歩いてみて感じたのは、日下部氏やそれ以前の古墳や遺構は、結構ぞんざいに扱われてきたのではないかというものだった。ほとんどが、そこに何があったのかが分からないような状態であった。ただはっきりと分かったのは、大きくは3つの岡の上に、それぞれの勢力が同時に存在していたということだ。分類するためにそれぞれにアルファベットを振った。小迫辻原遺構がある岡が(a)、穴観音古墳がある岡が(b)、法恩寺山古墳群がある岡からダンワラ古墳がある岡が(c)とする。
小迫辻原(おざこつじばる)遺跡(a)
日田市小迫。旧石器時代から中世までの遺構があり、古墳時代(3C末~4C初頭)では日本最古の豪族居館跡が出土した。
布留式土器が出土した。
朝日天神山古墳(a)
日田市小迫。1号墓は6C前期~中期、2号墓は6C前半と考えられている。
水晶製の三輪玉が出土した。これは継体天皇陵に比定されている今城塚古墳から出土したものと同じ形態をしていた。
ガランドヤ古墳(b)
日田市石井町。1号墳が6C後半、2号墳が6C中期で共に円墳。
2022年4月23日、この古墳を見に行く。特徴的なのが、1号墳の半円球の盛土で、印象的だった。後に復元したものと知る。
これらは装飾古墳で、一筆書きで人や動物(馬か)、船、円のようなものを描いていた。
出土品は、馬具、鉄鏃、耳環、玉、鏡、鍔、銀象嵌された鉄刀
穴観音古墳(b)
6C末~7C初頭に築造の装飾古墳。
日田市内河野。長者原遺跡(ちょうじゃばるいせき)。
彫刻文様が多い肥後地方の古墳の影響である可能性。
法恩寺山古墳群(c)
日田市大字刄連町字法恩寺。古墳群は7基の円墳。『豊後国風土記』の日田郡の条には、欽明天皇の頃、靱部として天皇に仕えていた日下部氏の祖先邑阿自が靭負いの村(後の刄連郷)に居を構えたとの記載があり、古代日田地方の豪族日下部氏一族の墓と推定されている。
3号墳:6C後半の装飾古墳。副葬品は、コハク製棗玉、轡、雲珠、須恵器など
4号墳:6C前半。副葬品は、変形五獣鏡、直刀、鉄鏃、轡、鈴雲珠、勾玉、管玉、須恵器など。鈴雲珠は、径13センチメートルの半球形の雲珠の上に径5センチメートルの球形の鈴を載置したもので、全国的にも希少。
ダンワラ古墳(c)
5C~6Cに築造された。
日田市日高町。昭和8年に渡辺音吉が「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」を発見した。これは三国時代の魏の曹操の鏡と同笵鏡ではないかとされている。
石棺からは鉄鏡と同時に鉄刀、轡が出土し、近辺からは碧玉製管玉、水晶製切子玉、ガラス製小玉なども出土したという。また、日田市から出土した帯の金具である金錯鉄帯鉤(きんさくてったいこう)3点も、一説には同じ古墳から出土した。一説には当時の日田地方の豪族日下部氏の古墳。
会所宮(よそのみや)(c)
日田市日高町。天安2年(858年)創建、比佐津媛(久津媛)と景行天皇を祀る。
山上にて弥生時代の甕棺が出土。
鳥羽宿禰(豊後国風土記)。
大蔵官員
雄略天皇の時代、大蔵官員を設置する。この職は朝廷の蔵の出納を管理するもので、秦酒公をその長官とした。この職には秦氏が多く就いたとされており、後にこの大蔵氏を名乗る氏族が出てくる。日田郡は大蔵氏が日下部氏から実権を奪っていくが、その出自は不明とされている。秦酒公に近い子孫が日田郡で大蔵氏を名乗った可能性もある。
継体天皇の後、安閑天皇の時代に、九州にも屯倉が多く見られるようになっていきます。
「置筑紫穗波屯倉・鎌屯倉・豊国滕碕屯倉・桑原屯倉・肝等屯倉取音讀・大拔屯倉・我鹿屯倉我鹿、此云阿柯・火国春日部屯倉」
すでに所在が分からなくなっている屯倉もありますが、豊国に6ヶ所も存在しているということは、それだけ秦人が多く入植していたと考えられます。
ここでまだ不明なのは、この屯倉に集められた税をどう当時のミヤコに運んだのか。荷馬車が通れるような規格道路や駅が誕生するのは150年以上先のことで、もし畿内にミヤコがあったならば、九州のどこの港を使ったのか、そこに集積倉庫がどのように存在したのか、分かっていない。
大原八幡宮
天武天皇9年(680)に靭負郷(ゆきいごう)岩松ヶ峰(天ヶ瀬町鞍形尾(くらがとう))に示現された八幡神「宇佐の鷹の居の社に坐す神」を祀った。慶雲元年(704)元宮原(もとみやばる)求来里村(神来町)に遷座し、寛永元年に現在の田島大原に遷座した。靭負という言葉は大伴氏もしくは久米氏を指すことから、ここでは豊前国豊日別宮(大伴牟禰奈理創建)の伝承に共通するところがある。なぜか靭負の氏族が最初に社を建立し、秦氏族がそれをヤハタ神信仰へと繋げていく。
日田郡と秦王国についての考察
・渡来人の日下部氏伝承から、日田郡に秦人が入ってきたと言える。
・日下部氏のダンワラ古墳からは、魏の曹操が持っていた「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」が出土、同じく法恩寺山古墳から「鈴雲珠」という貴人の馬が近づいたときに鈴の音で知らせるような副葬品もあり、王・貴族であったのではないかと考えられる。鈴雲珠の出土は珍しいことから、誰もが用いてよいものではなかったのではないかとも考えられる。また鈴雲珠を利用していたとすれば、その他のものも同じように中国風に合わせていたと考えられる。
・高魂尊を祖とする葛城氏が、応神天皇時代に120県の秦人を来朝させた。葛城氏の同族が日田の日下部氏で国造となった。
・比佐津媛が恭順した景行天皇は、日下部氏ではと考えられる。
・秦人は鷹をトーテムとしていた可能性がある。伏見稲荷大社の「白鳥」伝承も、ハヤブサもしくはオオタカであり、「白」は新羅を示していると考えられる。この鷹の伝承は、彦山を経て田川郡に伝わり、ここで香春岳の新羅神になる。また八面山(箭山)・薦神社の三角池から宇佐鷹居社の伝承に繫がっていく。
・日田郡の大蔵姓が酒公に近い子孫であれば、彼らが秦王国を自称することは考えられる。
・彦山開創の藤原恒雄の伝承と古朝鮮の「壇君神話」の類似性から、この「壇君神話」を新羅系の渡来人が持ち込んだ可能性が高い。継体天皇25年(537)、北魏の僧・善正(ぜんしょう)が彦山山中で修行中に猟師の恒雄と出会うところから始まる。
「甲寅年、彦山権現が衆生を利せんがためにマガダ国より如意宝珠をもって日本国に渡り、当山般若窟に納められる。それから160年後、法蓮がこれを得ようと修業を積む間に、白髪の翁が時々奉仕、法蓮は宝珠を与えることを約束。その後法蓮は宝珠を得る。法蓮が彦山上宮と宇佐の八幡宮に詣で、八面山の坂中でかの翁と会う。翁は宝珠を乞うが法蓮はそれを渡さず、ついにはそれを取られる。怒った法蓮が火界呪を唱え、火を翁の前に投じ、火は四方の山を激しく焼く。戻ってきた翁は、自分が八幡神だと明かし、寺を作って法蓮をその別当にするといい、八幡神は宝珠を得て宇佐宮宝殿に自ら治め、ここに八幡神と法蓮は同心の契りを結んだとする。」
引用「彦山流記」 僧法蓮 | ALIS
甲寅年は、西暦534年と考えられる。北魏の僧・善正が修行をしていた時代。
・八天狗のひとりは彦山豊前坊。そしてこの天狗と猿田彦神が同体として考えられている。山伏の姿で天狗は表現されることが多い。秦氏は鉱山開発にも長けていた一面が有る。
調査結果
隋書倭国伝の記載や秦氏の移動等の考察から、日田郡内に秦王国があった可能性は非常に高い。
秦酒公そのものの伝承がどこかに残っていれば、更にその可能性が高まるが、今回の調査では発見できなかった。引き続き注意深く見ていきたい。